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"菜翁が旨"さんのほほ~ぇむ健康ペ~ジ

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Degas(1834-1917)

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【Edgar Degas(1834-1917)】
エドガー・ドガ

『浴槽』は、『アラベスクの幕切れ』などに見られるように『踊り子の画家』とさえいわれたドガだらこそ描ける、モデルの人を上から見下ろして描いた逸品の一作である。
ドガは、この絵に見られるように、裸婦をポーズする裸婦としてではなく、生活の中の生身の裸婦として描いている。
だからこそ、裸婦でありながら、裸婦の色気を感じさせていない。
たいぞ~さんがドガの絵が好きなのも、このあたりかも…
そのドガは、『人は私のことを踊り子の画家などというが、踊り子そのものを描こうなどととは、ついぞ考えたことはなかった。
踊り子達に対する主な興味は、彼女達の動きを表現することと、美しい衣装を描くことだったのです。』と、
このような、ドガだからこそ描ける逸品かも…
ドガ1867若い婦人の肖像
若い婦人の肖像】1867年
1834年、パリの裕福な銀行家の長男として生まれたドガは、小さいころから絵ばかり描いていて、少年期の学校の成績の良かったのは美術の時間だったという。家のあとつぎであるだけに、画家を志すようになったドガは、両親を納得させるのにそれ相応のむづかしさもあったらしい。やがて本格的に絵の勉強に身を入れることになったのが、アングル系の画塾であった。あの端正な素描力がしっかりと根づいたのは、線描の確かなアングル的手法の結果であったに違いない。ただ、そうした教育方法はややもするとアカデミックになりやすい弊害をともなうものだが、ドガが残したどの作品にもそれはない。かえってその厳しさが画面に香気さえ漂わせているのは、心の深さによるもので、小手先仕事からくる卑しさにならないからである。この女性は、いわゆる貴族趣味的に整った美人とはほど遠い女性であろうが、品格の中になにか話しかけたくなる隣の人のような親しみさえ感じさせてくれる。このひけらかしの無い抑制ある仕事ぶりは、晩年失明に近くなって、触覚に頼る彫塑の作品をてがけるまで続く。生存中のどがは、当時それほど有名ではなかったということだし、売ることのために一枚の絵も描かなかったという伝説めいた話もあるほどだから、幾分偏屈なほどの潔癖な人だったのであろう。残されたデッサンでも、直接サインしたものは少なく、死後にそれを管理する所でやったのであろうか、ドガのサインを印判にして捺して世にだしたものが多い。カンバスや、デッサン用紙を継ぎ足して描いたものも沢山あることなどをみても、ドガの追求精神の厳しさを窺うことができよう。この絵は27x22センチの小さなカンバスに描かれたものである。この、小さな絵が私達に語りかけてくれる清清(すがすが)しい品格に、改めて芸術家ドガを見る思いである。(佐藤忠良 彫刻家)
ドガ1872オーケストラの楽師たち
オーケストラの楽師たち】1872年
オペラ座では普通オペラとバレエが交互に上演される。ドガは1866年にバレエ「泉」を、1871年にはマイヤベアのバレエ「悪魔ロベール」を描き、以後は踊り子たちの姿を無数の油絵やパステル、デッサンなどで扱うようになる。どうやら彼はオペラ座のパスを持っていたらしい。
彼が通ったのは先ず、ル・ペルティエ街にあったオペラ座(1873年焼失)続いて、今日も残るガルニエのオペラ座((1875年竣工)で、臨時の練習場サル・ヴァンタドゥールへ行ったことも知られている。上演される舞台そのものよりは踊り子達の姿態や華麗な色彩を伴った動きに画家の注意が向けられていたことは、同じ主題を何点か見れば想像がつく。振付師や音楽家の姿もよく登場するし、踊り子が休憩中にポリポリと背中をかいたりあくびをしていたりすることもある。
この作品は、画面がはっきりと上下に分かれる。上方は舞台で、脚光をあびながらプリマ・バレリーナが客席に会釈し、他の踊り子たちは左側にたたずむ。下方はオーケストラ・ボックスで、三人の楽師と楽器や楽譜がクローズアップされている。全体としては遠い舞台が明るく、近い楽師たちの部分が暗く、おまけに右端の楽師の半白の頭部は画中に半分しか入っていない。構図についても明暗の配置についても非常に大胆な工夫が凝らされているわけで、このように常にひとの意表をつく工夫の案出については印象派のグループはもとより西洋絵画史という枠で考えても、ドガの右に出る画家はめったにいない。
楽屋裏へも出入りの出来たドガは、むろん多くの踊り子たちと個人的に知り合っていた。彼女たちは一般的に"ねずみ"と呼ばれており、スターででもないかぎり生活は非常に苦しいものだったらしい。十五歳ぐらいでバレエ学校に入り、数年後になんとかオペラ座の舞台に出られるようになっても、"ねずみ"たちの年俸は二千から三千フランぐらいでしたない。ドガは彼女達の昇給を求める手紙を脚本家のアレヴィにあてて書いている。彼自身も必ずしも生活は楽ではない。だが必要とあればバリトン歌手のフォールやバスーン奏者のディオが一点を三千から五千フランくらいで買ってくれた。ドガの貧乏は弟の破産にもよるが、それ以上に、精魂かたむけて描いた作品を実は手放したくないことによるものだった。《池上忠治 神戸大学教授)
ドガ1877ごろアラベスクの幕切
アラベスクの幕切れ】1877年ごろ
この絵を見てまず感じるは、ドガの、踊り子に対するキララな思い入れである。そして第二には、踊り子がつくり出す人間としては極限ともいえる肢体のフォルムに、強い造形的興味を覚えずにはいられない。ドガは、まれにみるデッサン家であった。対象の鋭い観察による冷徹な写生力は、フランス近代の画家の中にあって、師とも仰いだアングルと共に際立っている。ドガは美術学校を卒業して後、しばらくアングルの弟子ラモットに学んだことがあった。以来彼は、終生アングルに深い敬意を抱き続けた。そのすぐれた素描力が生まれた遠因は、天性の素質に加えてそんな所にもあったのかもしれない。
ドガは一貫して十九世紀の印象派とつかず離れずの立場に身を置いていて、決して主流には属さなかった。むしろ、印象派の人々が忘れていたものに目を向け、近代写実主義絵画の一つの典型を築き上げた人といえる。十九世紀印象派の発想の中にある光、影、自然、時間――それらは非常に理論的な概念ではあるが、あまりにも自然に隷属的でありすぎたために、逆に絵画の中における最も重要な要素である造形性を喪失しそうになってしまった。そんな中にあって、冷静に光りと影がうき出す事物を的確にとらえたのがドガなのである。
彼のそのような事物に対する目は、他の印象派画家たちの目(現代からみれば多分に陳腐な)にくらべ非常に新しかったというべきであろう。えぐるようなフォルムや流れるような、しかも理知的な線は、現代に通じる多くの要素を残している。
この絵は、ドガがたくさんの踊り子を描き、絵の中のリズムと光と影とそれらの現実の中における人間の把握を求めた数多い作品の中において、きわめて強い造形性をねらったと思われる作品である。
おそらくドガは、この絵を描く前にまず、細長の四角い画面というものを意識したのだろう。そして、その細長の四角い画面にいかに好きな踊り子を入れるかという画家的興味につかれたと思う。
手前の花束は画面の起点であり、それを支える手、腕の直線に伸びた対角線、直角を形づくる足の線、うしろにもっていった手からバックの踊り子の群像へと導入する構図の鮮やかさ。この絵は画家の踊り子に対するあくなき情念と、画家の中にある四角い画面というものに対する追求が混然一体となって昇華された玉のような作品である。(福井良之助 画家)
ドガ1879観覧席前の競走馬
観覧席前の競走馬】1879年
なぜか、ドガは、「動くもの」を描くことを好んだ。バレリーナ、競走馬、働く女たち、裸婦さえ静止していることがない。
エッサンスという技法は、オイルスケッチとも言い、パステルと同様、彼が気に入って用いた技法であった。できるだけ油分を抜いた油絵の具を、揮発性の油でといて、一般には紙の上に描くもので、艶(つや)の消えたマチエールがドガの好みに合ったこともあろうが、その速写性が彼のモチーフに適していたのだと思われる。
明るく、澄んだ日差しの下で、スタートを待つ競馬場には独特の華やぎと興奮とがある。ドガは、印象派の一員として見られてはいるが、印象派というカッコでくくるにはドガは余りにドガであり過ぎた。ここでも彼は情景に酔って個々のフォルムを光の中に溶融することなく、画面全体の知的秩序を確立している。構図は左端の人馬を中心に回っている。右側のポールの垂直線と、中央の馬の激しい動きをリズミカルに収束しながら手前に近づく馬の列は、鮮やかな朱色のジョッキーに集められ、二頭の馬の影によって左下方に流れ出ようとする動きは、観覧席の三角屋根によって一気に引き上げられ、さらに、かすかに流れる煙突の煙によって右側に返されている。同時に、右側の馬の褐色の濃淡と左側観客の白いパラソルの対比も、この作品の構成を面白くしている。下地を生かした全体に薄塗りの画面にもかかわらず、この絵が緊張と厚みを維持しているのは、明らかに浮世絵の影響を感じさせる色面の明暗対比と、そして何よりも、古典的とも言えるたぐいまれなデッサン力である。
ドガが近代絵画史上屈指のデッサン家であることは言うまでもないが、真に優れたデッサン家の資格は、これみよがしの匠気に決して流されないことであり、うまいとさえ思わせない節度を保つところにあるということをドガは教えてくれる。
ヴァレリィの「ドガ・ダンス・デッサン」は、ドガの狷介(けんかい)とも言える複雑な人柄を敬愛の念を持って伝えている。そこには、時に頑固で、周囲にたいする峻烈な批評や皮肉も辞さないドガの一面も記されているが、怜悧(れいり)なドガには、そういう自分自身も見えているにちがいない。だとすれば、彼が「動くもの」こだわり続けたのは、ひたすら、動くものの「一瞬」に集中することによって、自分の中にある「無心」をひきだそうとしたのではなかろうか。(入江観 画家)
ドガ1884アイロンをかける二人の女
アイロンをかける二人の女】1884年
ほとんど正方形に近い画面を斜めに切って大きな机の線が走り、この仕事台に向かって二人の女が立っている。二人とも洗濯物にアイロンをかけることを仕事としているのだが、姿勢や動作は大いに異なる。ピンクのブラウスを着た右側の女が、渾身の力をこめてアイロンを白っぽい布に押しつけているのに対して、白い上着の上に茶色のショールをかけた女は、単調で力のいる作業にうみ疲れたかのように背伸びをし、また大きくアクビをしている。その左手は後頭部にまわされ、右手は緑色の瓶の首をつかんでいる。人の背後は壁か窓かはっきり分からない。右奥のずんぐりとした暗緑色のものはストーブであろうか。この作品は1880年代前半のものとされているが、ドガはこれより十年以上前から洗濯やアイロンかけ関連する画面を手がけている。たまたまドガのアトリエを訪問したエドモン・ド・ゴンクールの文章が残っている。ドガのことを「オリジナルな男」「不安すぎる精神の持ち主」などと述べながらも、ドガが近代生活の描写という方向に進んで、洗濯女や踊り子といったモチーフを取り上げたのは、選択として「そう悪くない」という。この作家に対して、ドガは次々と作品を見せ、アイロンをかける女たちの所作を自らまねて説明し、「ぐっと力を入れる」とか「ぐるりとまわす」とかいう彼女たちの専門用語まで解説している。このような話はゴンクールの日記の1874年2月13日の部分に出てくることで、稀有の分析的精神の持ち主であったドガは必ずや働く女たちが洗濯をしたりアイロンをかけたりする現場を、何度もふんでいたにちがいない。
ゴンクールのいう「近代生活」はもっと早くボードレールが言い出したことで、当時急速に発展しつつあったパリの都会風俗と言い直してもよい。ギースもドガもロートレックも、こうした画題を好んで取り上げたわけだが、ここに取り上げた作品は構図の点でも数少ない色彩の効果的な取り合わせという点でも群をぬいてすばらしい。まただれかがアクビをしている瞬間に着目したという点ではカメラ・写真の開発との関連も考えられる。新奇なことの追求人の意表をつく表現といった点で、常に最先端をゆくことをドガはめざしていたらしく、この作品も彼のそうした精神のあり方を十分に、しかも楽しく私たちに伝えてくれるものである。(池上忠治 神戸大学教授)
エドガー・ドガ1885ごろ浴後
浴後『髪をくしけずらせる女』】1885年ごろ(73x60紙にパステル)
ドガ1886浴槽
浴槽】1886年
この裸婦をこの角度で見おろして描いていることにまず私は驚嘆する。おこがましいことだが、もし私がこの角度で描くとしたら間違いなく失敗する。失敗して自分のデッサン力の乏しさに自信を失ってしまうだろう。
ほとんどの場合、人体を上から見おろして描くことは至難のことと思う。この角度から見おろして、しかもアクセントの少ない背面を、的確に描ける人はほかにいないのではないか。もっと形のとりやすい位置に逃げてしまうことが多いと思う。ドガはそれをさりげなく、苦心も見せずに、力みもせずに、見事に描きあげている。恐ろしいほどの非凡なデッサン力がこの一点にも見ることが出来る。この絵では、抑揚の少ない、捕えがたい背中が美しく主役を果たしている。しかも裸婦の背面を見おろす位置に立って描いているとしては、この画家の目は大変な広角レンズを備えている事になる。高い台の上にでも乗らないと、このような画面が一度に目に入るわけにはいかない。
ドガの、作意をみせない作画の苦心が、こんなところにも潜んでいるのではないだろうか。
ドガは自分の周辺にある現実の生活の一部を描くことが多いが、この絵も、いわゆる裸体画とは制作の姿勢がちがう。ポーズするモデルとしてではなく、生活の中のなま身の裸婦として描いている。それでいて、なまの色気を感じさせない。なまの色気が、ドガの目の中のたしかな網で美しく濾過されている。暖かい色調と、鍛え抜かれたデッサン力、それにパステル特有のおだやかな感触が、見る人の心にじかに伝わってくる。何気ないものを、何気ないように描いて、しかもそれが美しい気品をもつ。ここには、題材も技法も越えて、この画家の品格が画面に輝く。ドガの作品のすべてに、私はそれを見るように思う。画面にひろがるこの澄明な気品は、一体どこから来るのだろうか。私はドガのいくつかの自画像の、あの目の中にその秘密を見るような気がする。ドガの心が、あの自画像の目のなかに、生きて静かに私を見ている。(船越保武 彫刻家)
h25ドガ1888階段を上がる踊り子たち
階段を上がる踊り子たち(全図)】1888年

ドガ1888階段を上がる踊り子たち
階段を上がる踊り子たち(部分)】1888年
エドガー・ドガの芸術についてでなく、人物について書かれたものを読んでいると、彼が「本当はよい人なんです」と言われる類の、要するに嫌みで辛辣で容赦のない、人々に心から愛されたとは言いがたい人間であったことがわかる。しかし最近パリで行われた彼の大回顧展を見ると、そうした表にはマイナスとして表れる彼のあまり快くない部分が、その芸術に結びついて不思議な鋭さと力を持っていることを感じないわけにはいかなかった。つまり彼の芸術は決して心優しい善良な人物の作ったものではなく、人間を動くものとして動物としてとらえ、つまりは素材としてつき放して見るために、対象の立場とか心理などは斟酌しないわがままな自己中心的な精神の産物なのである。
この場合、自己を自己の芸術と置き換えてもよい。
彼は家庭も特定の愛人ももたず、わずかに育ちのよい青年のたしなみとしてオペラ座やカフェ=コンセールなどに通ったが、決してそれらにのめりこむことなく、ただひたすらにデッサンし、油彩画、パステル画を描き、視力が衰えてからは彫刻を作った。そうした世俗の馴れ合いを拒む姿勢と、彼の作品の鋭利な切れ味とは、おそらく無縁ではない。
この踊り子をモチーフにした油彩画は、きわめてエスプリのきいた大胆な構図感覚に貫かれている。まず極端に横長の画面、そして左上と右下の大胆な余白、画面の左手の下方からぬっと現れ出たような三人の踊り子、かなり大きさの違う手前と奥の人物群。いずれも日本の美術から彼が学んで応用した特質(ジャポニズム)であるが、だからといってだれのどの作品に構想を得たとか、類似していると言えるようなものではない。そしてまた彼の作品は、いかに日本人の視点や構図感覚から学んでいても、必ず自分の眼というフィルターを通して、つまり対象をその空間の中に置いて見るという体験を経ているために、人物の動作や光や細部に非常に生き生きした効果を生み出している。
首だけと上半身を断ち切られた二人の踊り子のさりげない動作、階段を登りきった踊り子のバレエ・シューズのサテンのようなタッチや髪にあたるハイライト、右上の窓からわずかにのぞくパリの街並みなどが、左下から右上にかけての動きのある構図に彩りを添えている。(馬渕明子 青山学院女子短大助教授)
ドガ1890蒼い踊り子たち
蒼い踊り子たち】1890年
私たちがドガの作品を思い浮かべるとき、まず最初にイメージするのは、バレエのコスチュームを着た踊り子の絵ではないだろうか。舞台の上で華やかなスポットを浴びて、白く浮き立つバレリーナたちや、練習する様子を描いた「下稽古」など、生涯を通して書き残した約二千点にのぼる彼の油彩画やパステル画の半数あまりが、踊り子をテーマとしている。当時は踊り子の画家とさえ言われた。ドガ自身、この世評について、興味深いコメントを残している。「人は私の事を踊り子の画家などと言うが、踊り子そのものを描こうとは、ついぞ考えたことはなかった。踊り子たちに対する主な興味は、彼女たちの動きを表現することと、美しい衣装を描くことだったのです。」事実、ドガは、動くものに対して非常に強い興味を示していたようである。彼は、彼の関心をとらえたものを表現する天性の描写力に恵まれていた。ドガのデッサンは、彼にとって形をあたえる手段であったが、また同時に、彼のあらゆる想像力と夢を実現するための武器でもあった。若い頃からアングルを師とした彼が、しかし、師とは違った世界を展開し得たのは人間の内面を深く描きだそうとしたその姿勢にある。そこがドガの立派なところだと思う。
見事に均整のとれた素描と上品で落ち着いた色彩。そうしたところに目を奪われがちな彼の絵のなかに、実は人間性の内奥まで深く描き出そうとした画家の心情がこもっている。それを見た時、私達はドガの魂に打たれる思いがするのである。華やかな舞台の踊り子を描いていながら、そこには決して甘い感傷は見出せない。(大津英敏 画家)
ドガ1890-95踊り子たち
踊り子たち】1890年-1895年
なにげないモチーフをなにげなく描いて、しかもその奥にたかい気品がある。ドガの描くものは、浴女でもバレリーナでも、作画姿勢の品格の高さが感じられる。けんらんたる艶のあるはずのこのモチーフも、ドガの手になると、節度のようなものが芯になっていて、落ち着いた渋さをもってくる。眼に見えたものの一こまを、無造作に切り取って描いたように見えるのだが、決してそうではない。絵画の従来の方法に対する新しい実験が行われているような気がする。
この絵では、手前から三人目の踊り子に焦点を合わせてある。そして画面を斜めに画面を大きく横切る明暗によって、たしかな奥行きを作り出している。向こうの踊り子に焦点を合わせたことにも、画家の計算された奥行きのねらいが見られるように思う。私はこの絵についても、画家の視点の位置が平凡な高さにあるのではないことに気がついた。普通に人間が立ってみる位置より高いところから見おろしている。「浴槽」も同じように高い位置から見おろした角度であった。これは偶然のことではない。たくさんのスケッチから十分に検討されて作られたことがよくわかる。これはドガが、画面の奥行きとか、臨場感を求めたことからくるのであろうか。優れたデッサン力をもつこの画家は、しつこく追及した苦闘のあとを画面にみせない。カミソリのような鋭い線を嫌った人のように思う。どぎつい、ギラギラしたものが嫌いで、それを抑えたサラリとした感触を好んだのであろう。この絵もパステルでデッサンをしているようなゆとりを感じさせる。
ことさら強調するわけでもなく、くせの強い手法でもないのに、どの絵を見ても、すぐドガの絵とわかるのは、この画家のもつ、節度ある姿勢が、まっさきに伝わってくるからであろう。数知れないたくさんのデッサンを描き、彫刻(塑像)も小品ながら、優れたものをかなりの数つくっている。平面の上では物足りなくて立体を直接作ったと思われる。あるいはドガにとって、塑造することは、形をたしかめて、画面のなかの人物の姿勢をもっと、検討するための修練であったかもしれない。
自分で作った踊り子の塑像を、見おろしてデッサンしたことがあるのではないかと思う。ドガの絵の視点の位置の高さを見ると、私はそんなことを想像する。(船越保武 彫刻家)
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引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
     日本経済新聞「美の美」(別刷り)



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